ペンとサイコロ -pen and dice- BLOG

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京町屋

「町屋(町家)」は昔の都市型住宅の通称で、武家や寺社仏閣ではなく町民の家を刺す一般的な名称です。
都市でない町民の家は「農家」が一般的で、江戸時代の人口の8割以上は百姓であったとのことから、数としては農家が圧倒的に多かったと考えて良いかと思います。
(百姓は必ずしも農民ではなく、漁業・林業など今でいう一次産業に携わる方全般を示したそう)
今残っている町家は江戸時代以降に作られたもので、地域ごとの気候や法律に従い、様々な特徴があります。
その中でモデリングしたのは京都の町家づくり。

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なぜ京都か?
単純に、図面が手に入ったからです。

 

基にしたのはその名も「京都の町屋」という書籍の中にあった図面。

(昭46・SD選書)

「京都の古き良き町家が失われている」という危機感から作られた昭和46年の本で、京町屋の写真や家族構成、家の使い方など当時の京都の町をそのまま残そうとした著者の努力が感じられる一冊です。
その中で、京町屋の一軒を実測した図面があり、それを参考にモデリングしています。
ちなみに昨今京都では外国人観光客によるオーバーツーリズムが問題化していますが、その中で古い町家が潰されホテルが作られていることにも警鐘が鳴らされています。
その際にも「京都の古き良き町家が失われている」と言っていたので、京都の人間にとっては「近頃の若者は」と同じようなものなんでしょうか。

 

京町屋に限らず、町家のデザインで多いのは「鰻の寝床」と言われる、間口が小さく奥に長い、長方形の間取り。
これは当時の税金が間口の広さで決まったことから、間口は小さく設計され、かつ生活空間を広く取ろうとしたことからこうなったと言われています。
「税金のために家の設計が決まる」というのも世界的にもよくある話ですが、京都の場合は町人同士での意匠規制もあったとのことです。

 

この家は二階建てですが、町や街道筋では武士や大名が前を通ることもあるため、江戸時代は表通りに面した二階建ては禁止されていました。
このため、この家は明治以降に建築、または改築されたと分かりますが、実際にこの家は江戸時代は中二階(厨子二階、と言います)の建築で、のちに二階建てに更新されたそうです。

京都の町を歩くと、町家が並んでいる町並みで、通りに面した間口は揃っているのに屋根の高さがちぐはぐになっているところを見かけます。
これはそれぞれの家が改修する際に個別に二階を設けるため、壁と間口は同じでも、屋根がぞれぞれ違っていった。そんな歴史を映しています。

例えばこちらは京都の町を歩いていて見つけた家。手前のお家は手前が二階に窓がありますが、奥は虫籠窓のまま、その奥の家は二階を高く改装しているので屋根の高さが揃っていません。

 

日本の、特に古い住居は木造なので、20~30年もすればメンテナンスが必要です。(屋根の葺き方によってはメンテナンス周期はもっと短い)それに限らず、人が住んでいるなら改善のために昔の状態からどんどん変わっていくことは人が生活する中での宿命ともいえます。

(奈良民俗博物館・旧松井家住宅の修復中の茅葺屋根)

3Dモデリングしたこの家も二階は元々虫籠窓でしたが、2階スペースを有効利用しないのはもったいないので、屋根を修理するタイミングで変えたそうです。
「家は使っていないと傷む」と言いますが、特に古い家では隙間が多いので、人が住んでいないと動物が入って住処にしてします。藁ぶき等の屋根は枯草と一緒なので、草が生えたり鳥が巣を作ったりもあたりまえ。人が住んでいれば動物は追い出しますし、また煮炊きの煙が屋根を燻したため、藁葺屋根から虫を追い出して寿命を延ばす役割も担っていたそうです。
こう考えると、古い家を古いまま残すのは結構難しいと分かります。
例えば奈良民俗博物館では移設した民家で「昔の民家の竈でお米を炊いてみよう」というイベントをやられていますが、こうしたイベントも、PRだけでなく建物の維持管理としても効果があると思われます。(直接確認していないので、イベントの実施目的にこうした理由があるかは想像です)

 

京町屋は「鰻の寝床」の裏に庭があり、土間が裏まで貫通しています。
この土間を「トオリニワ(通り庭)」と呼び、土間部分には天井を張らないので天井が高くなります。
外から見ると屋根はシンプルな切妻屋根で特徴が無く、家の個性は一階の間口で行われていました。

江戸時代も後期になるとそこまで厳密ではなくなったそうですが、格子の太さや形状は職業によって異なっていたそうです。

モデルは昭和の実際の測定を基にしているので、昭和の生活状況を反映していますが、古民家モデリングということで水道は省いています。
築年数の古い家であれば和室の構造は基本的には大きく変わりませんが、人が生活するうえで避けられない水回りと台所は時代の影響をはっきり受けます。
日本の場合、水道は昭和30年代に一気に普及したそうです。
上水道の普及率の変化
 1955年(昭和30) 36%→ 1965年(昭和40) 69.4%

https://www.mhlw.go.jp/content/001074041.pdf


江戸時代にも上水を通じて長屋にまで水は来ていましたが、家庭の中の水が井戸から蛇口に変わり、水がめが消えたのはほぼ戦後に入ってからと考えて良いかと思います。

これが電気になると事情が違い、
「1909(明治42)年の4%から、1935(昭和10)年には89%」と、戦前時点でほぼ普及が完了しています。

【電気博士セレクト!】現代と似てるかも? 明治から昭和にあった「電気なムーブメント」 | Concent

ただし当時の電力は電灯用で、家庭内にコンセントはありません。
家庭内にコンセントが配備されるのは戦後になってから。上の上水道と時期的には軌を一にします。

 

例えば「この世界の片隅に」の舞台は戦中なので、電灯があり灯火管制していますが、水は水がめから掬って飲み、竈で米を炊き、空襲警報があればまず火を消して防空壕に逃げ込んでいました。
ちなみにあの作品の考証は本当に凄いので、自分で調べた内容を映画で発見して「そういう使い方するのかー」とか「そういう構造かー」と悶えることが何度もあります。えぇ、何度も。

 

そう考えると戦後、昭和30年~40年ごろに日本の家庭では台所革命が一気に進んだことが分かります。
ちなみに「台所革命」は私が言ったことじゃなくて、当時の資料見てるとポツポツ出てくる言葉です。

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昔の日本をテーマにするなら、こうした知識があればより雰囲気のある表現ができるかと思いますので、ぜひ参考にしてください。