ペンとサイコロ -pen and dice- BLOG

ボードゲーム・3Dプリント作品・3DCG制作を行う「ペンとサイコロ」のブログです。公式サイトはこちら→http://penanddice.webcrow.jp/

日本を席巻した江戸時代の桶・樽文化の話

江戸時代の江戸の町は世界最初の百万人都市になり、その人口を維持するためにリサイクルが発達した社会だったというのは有名な話。
有名なのは着物や排泄物で、排泄物は大と小に分けて回収されて肥料になり、長屋の主な利益はその売却代金であったと言われるほど。(ちなみに売却代金が誰の懐に入ったかは地方によって違ったりする)

(江戸の屎尿事情に関する本はたくさんありますが、私が持っているのはこれ)


着物も古着を販売する市があちこちにあったとされ、例えば日本橋富沢町では「魚河岸に次ぐほどの繁盛ぶり(江戸繁盛記1832)」、神田川沿いの柳原では「江戸名所図会 柳原堤」でも古着屋が軒を連ねている様子が確認でき、明治になって100件ほどの古着屋が並んだとされています。使い古した古着も継ぎを当ててさらに安く売られ、最後は雑巾になったので廃棄はほとんど出なかったそうで、それだけの人口がいたにしては当時の着物はあまり残っていないそうです。
実際、長屋の設計を見ていても、ゴミ収集車どころか公的なゴミ処理システムも無かったはずなのに住んでいた人の数に対してゴミを捨てる芥場が小さい。それだけゴミの出ない生活をしていたのだと分かります。

(江戸の裏長屋、38軒が軒を並べるのに芥場は赤丸の2か所だけ)

実際当時ヒットした書籍でも「XXを直す方法集」みたいなものがあり、色々なものを使って壊れたものを直しながら使い続けたことを感じさせます。

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京町屋

「町屋(町家)」は昔の都市型住宅の通称で、武家や寺社仏閣ではなく町民の家を刺す一般的な名称です。
都市でない町民の家は「農家」が一般的で、江戸時代の人口の8割以上は百姓であったとのことから、数としては農家が圧倒的に多かったと考えて良いかと思います。
(百姓は必ずしも農民ではなく、漁業・林業など今でいう一次産業に携わる方全般を示したそう)
今残っている町家は江戸時代以降に作られたもので、地域ごとの気候や法律に従い、様々な特徴があります。
その中でモデリングしたのは京都の町家づくり。

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なぜ京都か?
単純に、図面が手に入ったからです。

 

基にしたのはその名も「京都の町屋」という書籍の中にあった図面。

(昭46・SD選書)

「京都の古き良き町家が失われている」という危機感から作られた昭和46年の本で、京町屋の写真や家族構成、家の使い方など当時の京都の町をそのまま残そうとした著者の努力が感じられる一冊です。
その中で、京町屋の一軒を実測した図面があり、それを参考にモデリングしています。
ちなみに昨今京都では外国人観光客によるオーバーツーリズムが問題化していますが、その中で古い町家が潰されホテルが作られていることにも警鐘が鳴らされています。
その際にも「京都の古き良き町家が失われている」と言っていたので、京都の人間にとっては「近頃の若者は」と同じようなものなんでしょうか。

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重要文化財・目加田家住宅

日本の建築史を調べると、
「日本の住宅の間取りは武家屋敷がもとになっている」
という記述が出てきますが、現存する武家屋敷は非常に少なく、そうした時代をイメージするのは難しくなっています。

 

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目加田家住宅はそんな現存する武家住宅の一つ。
典型的な武家屋敷の作りを見ることができます。
中級武士の住居として、江戸時代には珍しくもない住居だったでしょうが、今では重要文化財に指定されているあたり、どれだけ現存するものが珍しいかを物語っています。
(もちろんそれだけが指定の理由ではないでしょうが)

 

武家屋敷の特徴を間取りから見ると、来客のための「公」のスペースと、
家族のための「私」のスペースが明確に分かれていること。

他でも「床の間」という、家の中心に向けた動線を基準に家が設計されていましたが、それでも私的な空間との間取りは緩やかに混じっていました。
しかし武家屋敷では公的な空間と私的な空間は厳密に分けられ、公的な空間に入らずに生活ができるようになっています。
この背景について、下山眞司氏は「寺院建築では来客のための場が主で、そのための準備の場が裏にある格好だが、それを基にしており、来客を主、住民を従としたのではないか」と考察されています。

建築をめぐる話 故 下山眞司

 

公的な空間

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